パレスチナのガザ地区へ行った:94年中東旅行の思い出パート3

ガザ記へ入る前にパート1からの引用だが、当時のパレスチナ情勢について最初にもう一度書いておく。

当時のパレスチナ情勢

僕がガザを訪れた1994年はパレスチナがわりと平和な時代だった。前年の1993年にアラファト議長率いるPLOが、イスラエル政府との間にオスロ合意という協定を結んだ。簡単に言うとパレスチナの自治を拡大して、イスラエルとパレスチナの二国家並存を目指す計画(だと思う)。住民の安楽な生活を実現させる足がかりとなるはずだった。この協定を調印したアラファト氏、イスラエルのラビン首相、ペレス外相は翌年にノーベル平和賞も受賞した。

このような時代背景もあり、僕のような一学生でも苦労もなくガザ地区へ入ることができた。それでもガザは観光地ではなかったと思うが、ホテルもあったし、地中海で海水浴もした。最近のパレスチナ史上では特別平和な時代だったのかもしれない。

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運よくガザ住民と知り合えた

テルアビブにいたころ、そろそろガザ地区へ行こうと考えていた。またいつも通り誘われるがままチャイを飲んでいる時にその話をすると、ガザの人を紹介してくれると言う。そして紹介されたのは15歳ほどの女の子で、彼女はそのチャイの会社で事務のアルバイトをしていた。ガザから通勤しているらしく、帰りにガザまで一緒に行こうと言ってくれた。彼女と知り合ったおかげでガザまで難なくたどりつけた。

ガザ地区@パレスチナ

エジプト国境の町ラファへ

この日は彼女が、ぜひ家に泊まっていけと言ってくれたのでお言葉にあまえることにした。バスはガザ地区へ入り中心であるガザシティに到着。彼女の家は南端のラファにあるため、そこからさらにタクシーに乗り継ぐ。

彼女はパレスチナ人なのでもちろんイスラム教徒だが、スカーフもほとんど被っていなかった(一応持ってはいた)。さらに、地元から離れて都会で仕事をしている女の子というのは、ガザのアラブ社会ではかなり珍しい存在だったと思う。彼女のお父さんは厳格なイスラム教徒といった風貌だったが、考え方は先進的だったのだろう。

彼女は笑顔を絶やさない愛らしい女性で、15歳らしく好奇心も旺盛だった。あまり上手とは言えない英語で、日本やアメリカについて熱心に質問をされた記憶がある。僕のカメラに特に興味を示していたので貸してあげたら、一所懸命に家族の写真を撮っていた。

ガザでお世話になった家族

寄り道するタクシー

僕が乗ったタクシーは、まっすぐラファに向かわず、運転手と彼女で話をしながらその都度行き先を決めていた。そしてガザの海岸などを案内してくれた。こちらから頼んだわけではないので僕は若干タクシー代を心配していたが、ここまで来たら言われるがままにするしかないと思った。結果的に自分で歩くよりいろいろな場所を見ることができた。

ガザの砂浜

僕も写真撮影を楽しみながらラファへ到着。しかし降りる時になっても運転手は金額を言わない。僕はどうにか運賃を払おうとするが、その運転手は受け取らず「日本人から金は取れない」と言っていた。なぜここまで親切にしてくれるのか疑問に思ったが、どうしても受け取ろうとしないので、お礼を言って運転手と別れた。日本人は人気があるのかなと、なんとなく考えたがそれは間違っていなかった。その理由はあとで知ることになる。

ガザの通り

そして彼女の家に到着すると、父親も家族も僕を熱烈に歓迎してくれた。彼女は長子で弟と妹が5人ぐらいいたと思う。生活は楽ではなさそうだったが、明るい家族でとても親切だった。

ラファ@ガザ、パレスチナ

その日の夜は彼女の父親に連れられて街に出ていろいろな人に紹介された。オレの家に日本人が来たぞということを話していた。そして夜はお茶ではなく、アラックというアラブの蒸留酒を行く先々で飲んだ。酔っ払ったが危険な目にはあわなかった。

何日も世話になるのは申し訳ないので、翌日は別の場所へ泊まるつもりだった。あくまでもお礼の印として、お父さんにいくらか現金を渡したかったのだが決して受け取らなかった。何度もお礼を言い僕はこの家をあとにした。滞在中に何枚か撮った写真を、あとで送ろうと思っていたが、書いてもらった住所がおかしくて送れなかった。これが心残りである。

ガザの人達はなぜ日本を好きだったのか|ある日本人の影響

当時のガザでは子供から大人まで、とにかく皆が親切でどこへ行っても日本人の僕を歓迎してくれた。日本人を意味する「ヤバーニ」とよく声をかけられたものだ。彼らが日本人に対して良い印象を持っているのは明らかだった。その理由もわかった。タクシーの運転手が「日本人から金は取れない」と言っていた理由にもつながるが、ここで少しだけ「日本赤軍:岡本公三」の話をしたいと思う。

94年当時、日本製品は今以上に人気があり世間での存在感も大きかったので、そのおかげで日本に対する印象が良いのかな、と僕は考えていたが理由は別にあった。ガザにいる間ずっと、僕が日本人とわかると子供からも必ずこうきかれた「オカモトコウゾウを知っているか?」

当時の僕はそのオカモトという人物を知らなかったが、皆が「オカモトは素晴らしい」と言っていた。この日本人はガザ住民の間では世代を問わず絶大な人気を誇っていた。しかしこの「オカモトコウゾウ」というのは、1972年にイスラエルの空港で無差別テロ事件を起こした日本赤軍のメンバーのことだった(というのをパレスチナ人に教えてもらった)。94年当時、その事件発生からすでに20年が経過していたが、それでも彼らの間でオカモトコウゾウは伝説の日本人だったのだ。

良し悪しはともかく(少なくとも僕が訪れた当時の)パレスチナ人が日本人に対して好印象を持っていた一番の理由が、この事件であることは間違いない。当時のガザの人達は、黒澤明は知らなくても誰もが岡本公三の名前を知っていた。いかなる理由があろうとテロが許されるはずはないが、イスラエルとの間にわりと穏やかな関係が保たれていた当時ですら、住民の間にこのような感情がくすぶっていたのは紛れもない事実である。一日でも早く、パレスチナのアラブ人とイスラエル人が平和に共存できる日が来ることを切に願う。

ガザの様子

そんな事情もありガザでは危険な目にも合わず、わりと自由に動けた。さらに町には英語を話す人も多く、道端でくつろいでいる人達ともよく話した。ガザ住民がどれだけ辛い生活を強いられているかというのが主な話題である。若い人達は大学を出ても仕事がないという人が多く、年配の方と喋っていても景気のいい話はほとんどきかれなかった。親戚や友人が不当に牢屋に入れられているという話もよくきいた。

パレスチナホテル@ガザ

ガザには三泊ほどしたと記憶しているが、最初に泊めてくれたご家族とは別の方に事務所のような場所を貸してもらったり、ホテルにも泊まった。僕がガザに入るほんの少し前に、アラファト氏がガザに来ていたらしい。その時に滞在していたのがパレスチナホテルというガザでは有名なホテルだそうだ(僕が泊まったのはここではなかった)。滞在中はできる限り町を歩き、様々な人と話をしながら濃密な数日間を過ごした。貴重な経験だった。

旅行の感想まとめ

ガザ地区を出てからはもう少しイスラエルを回り、それからイスタンブールに戻ってトルコ航空でアメリカへ帰った。ひとくちに中東と言っても、場所によってかなり差がある。イスタンブールは大都会だが、ヨルダンは砂漠ばかりな上に建物も白っぽい石でできており、サングラスをかけていても目が痛くなった。エルサレムの旧市街は聖書の世界のような美しい石造りだったが、ガザは貧しい場所であった。

この中東旅行では地元の人達と関わることが多く、その中でもガザは一番印象深い場所になった。僕が訪問した時期は、パレスチナとイスラエルの関係も比較的良好だったので、町も殺伐としておらず住民とも話しやすかったのだと思う。一番いい時にガザを訪れることができて本当に運が良かった。

翌95年にイスラエルのラビン首相が(同じユダヤ教徒に)暗殺されてから、パレスチナ問題の雲行きは再びあやしくなった。右傾化するイスラエルは入植地や分離壁の建設を推進。占領地ではパレスチナ人に対する外出禁止、道路封鎖による移動規制も行われ、パレスチナ人たちはどんどん分断されてゆく。

一方パレスチナ自治政府では腐敗が横行し、パレスチナ人同士の衝突も起きるようになる。ガザ地区はまるごと封鎖され、外界との接触が絶たれる時期が続いた。パレスチナ関係の本を読むと僕がお世話になったラファは名前がよくでてくるが、どの本を見てもその描写は、イスラエルの激しい攻撃で多くの命が奪われ、家屋が徹底的に破壊された場所となっている。

ガザの女の子@パレスチナ

僕がガザで出会った人達全員、特にラファで泊めてくれたあの家族全員が、今でも無事元気に生きていてほしい。そして一日も早くパレスチナの人々が平和に暮らせる日がくることを心から願っている。

中東旅行記 トルコ イスタンブール:94年中東旅行の思い出パート1
今から約20年前の1994年に中東旅行へ行った時の写真を先日発見した。出来のいい写真は少ないが、特にガザ地区は今後も一般人は立ち入りができないかもしれないので、自分にとって貴重な経験になったし、せっかくの機会なのでなにか書いてみようと思う。発見し...
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